板橋区立郷土資料館

[ 開館時間 ]9時30分~17時 (入館は16時30分まで)
[ 休日 ]毎週月曜日(祝祭日の場合は翌日)・年末年始

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展示案内
EXHIBIT

3つのテーマと
導入展示からなる展示案内

旧石器から室町時代までを「生きる」、江戸時代を「暮らす」、明治以降を「戦う」という
3つのテーマに分け展示・紹介しています。

  • 導入展示~板橋の自然・歴史・文化~
  • 生きる~土の中に埋もれた板橋の歴史~
  • 暮らす~板橋の中世・近世~
  • 戦う~板橋の近代と戦中戦後のくらし~

導入展示~板橋の自然・歴史・文化~

導入展示~板橋の自然・歴史・文化~

  • 区名の由来

    軍記「延慶本平家物語」には、治承4年(1180年)に挙兵した源頼朝が武蔵国豊島の滝野川の「板橋」に布陣したと記されています。ここに地名としての「板橋」が初めて登場し、少なくとも鎌倉時代には「板橋」の地名があったことがわかります。しかし、地名発祥の由来については、はっきりした史料はありませんが、石神井川にかけられた木の橋を「板の橋」と呼んでいたのが語源とされています。また、『市町村名語源辞典』によると、「板橋」の「イタ」は崖や河岸、「ハシ」は台地や崖の端のことを意味し、崖の端にあった土地を「イタバシ」と呼んでいたと考えられます。そして、明治以降の町名として採用され、昭和7年(1932)に区誕生のとき区名となりました。

  • 板橋床面地図

    床面地図は約1/2800の大きさで、昭和7年(1932)町村合併による板橋区誕生前の板橋町、上板橋村、志村、赤塚村をモザイクのように色分けしたものです。地図上の金属のプレートは、主要な遺跡・文化財のあるところを表示しています。現在、板橋区の指定・登録となっている文化財は約160件になります。

  • 田遊び

    田遊びは水田耕作に関わる行事の一つで、年のはじめにその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する「予祝」の意味を持ちます。現在、板橋区では毎年2月11日に徳丸北野神社、2月13日には赤塚諏訪神社にて田遊びの神事が夜間に行われています。文政10年(1827)に齋藤鶴磯によって刊行された「武蔵野話」には「赤塚村牛をひきまハす図」という赤塚田遊びの挿画があり、当時の神事の様子を知る上で、貴重な資料となっています。資料館には、陰陽和合を表現する太郎次と安女が付ける面が展示されています。

  • 複合演出パノラマ ムラの世界

    模型と映像を複合的に用いたパノラマ展示では、成増1丁目にあった弥生時代終わり頃の古代の村、江戸時代の徳丸村、昭和20年(1945)6月10日空襲のあった旧上板橋一帯の3つのムラの様子を表しています。

    ◆古代の村 - 成増1丁目遺跡

    今から1800年前、弥生時代の終わりごろ成増1丁目には小さな村がありました。この村は首長の家を中心に、広場を囲むように7軒の住居と、谷側に倉庫が1棟ありました。北側の崖下には白子川が流れ、谷間にはわずかな田んぼもつくられています。

    ◆徳丸村 - 江戸時代の村

    武蔵野台地の北はずれにあった徳丸村は、本村と脇村にわかれ両村の名主らが村を取りしきっていました。 北側にある徳丸ケ原では、しばしば鷹狩りや砲術調練が行われました。村のはずれには鎮守の北野神社があり、また、中心には安楽寺がありました。村は安楽寺を中心に100軒ほどの農家で構成されていました。

    ◆6月10日 - 板橋の戦火

    板橋区では第二次世界大戦末期、昭和19年から20年にかけて、アメリカ軍による空襲をたびたび受けました。そのなかでも、昭和20年6月10日の空襲は甚大な被害となりました。B29爆撃機により、旧上板橋3~5丁目、現在の常盤台1~2丁目、東山、東新町一帯が破壊され、そこは火の海となり地獄絵図と化しました。

3つのテーマと
導入展示からなる展示案内

  • 導入展示~板橋の自然・歴史・文化~
  • 生きる~土の中に埋もれた板橋の歴史~
  • 暮らす
			~板橋の中世・近世~
  • 戦う~板橋の近代と戦中戦後のくらし~
  • 特別展・企画展特別展・企画展

  • 交通アクセス交通アクセス